ぼう凸おしべ +あな凹めしべ

 彼のことを頭の中で考えるのに、胸のあたりがギュッとなって切なくなる。

 あたしはそれを、実体の無い、『こころ』が有るせいだと思う。

「じゃあマリカを頭で思って、ちんこがたつのはなんでだろ」

 人なつこい大きな瞳を覆う、くっきり二重と黒く長いまつ毛をしぱしぱさせて、あたしのTシャツ胸部突起部分に向かい、首を傾げるアキジ。

「……あのね…綺麗な顔して、下品な発言しないでくれる?」

 くるくると跳ねる柔らかい髪をもっとちゃんと整えて、唇をきゅっと結んでさえいれば、すっと引き締まった細いあごは、知性溢れる凛々しい少年…に、見えなくもないのに。

 外見とつりあわない、お下劣な言葉なんて、まだ幼さの残る声で発して欲しくない。

 あたしは隣のズボンの中で窮屈そうに盛り上がった下心を肴に、三本目のビールを飲み干した。

「よく言うじゃない、“恋は下心、愛は真心”って。『下心』っていうのは『恋』の漢字の部首のことでもあるけど、そ――…」

 あぐらをかいたあたしのうんちくを、四つん這いになって覗き込むアキジがキスで遮った。

「そーやって、すぐむずかしいこというけど、マリカはどうなの?」

「…どうって?」

 空き缶をガラステーブルに置き、あたしは視線と言葉をはぐらかす。

 そうすると、アキジは良くも悪くも単純だから、お風呂あがりに下着姿でいたあたしのパンツを脱がしにかかり、すぐに疑問を行動へと移して確かめる。

「マリカはぬれてないの?」

「ちょっ…アキジ、やっ……」

 戸惑いを口にしながらも、あたしは強く抵抗しない。

 ショートヘアだけど髪は生乾きだし、フローリングに座るとお尻が冷えるのに、広げられた箇所にアキジの視線が這うから熱い。

「なんか、しめってるみたいだよ」

「……汗、だよ……」

「汗? なんでこんな所に汗かくの?」

「……それは……」

「それは? なに? おしえてよ」

 床上に寝そべって腕を組み、それ以上こちらに攻撃するつもりはないという意思表示をしてみせるアキジ。

 つまり、これは…あたしが希望を口にして、初めて事に及ぶという流れらしい。

「してほしくないなら、いいけど」

「わ、わかった……。いう、から……」

 大根が演じる余裕なんて、簡単に打ち崩される。そして愚かなあたしは、アキジに悦服する。

「……あ、アキジに……、……え…」

「“え”? なに?」

「……」

「なに?」

「……っ……っちな、こと……」

「えっちなことがなに?」

「……だから、……してほしいっ……!」

「うん。じゃあ、つづけて言ってみて」

 にこにこと無邪気な表情であたしを見上げ、もうわかっているはずの言葉を繰り返させるアキジ。

 こんなの……羞恥プレイだ。

 勇気を振りしぼり、惨めな言葉をしぼり出そうとしてしまうあたし。

 浅ましい劣情のために、プライドを捨ててまで醜い台詞を言わなくても、そんなものは自己処理すればいいものを。

 ……それでもやっぱり、アキジにして欲しくて。

「……アキジに、……えっちな、こと……、して、ほしい…っ……!」

 結局こうして、低俗な言葉を口にさせられる。

「ふーん。えっちしてほしいなんて、マリカはえろいなぁ」

 悪戯に瞳を細めたアキジの指が、蜜を孕む花へと伸びる。

 隠れた蕾のありかを知っていながら、わざと探るように花弁をたどる。

「っは…アキジ、ちが…そこじゃ、なっ……」

「違うの? どこ?」

「だ、だから…もっと、もう少し、し、た…、……あ…っ!」

 欲望に正直になりながら、……あたしは自分でついた嘘に、心を苛まれていた。

 自業自得だけど、でもその嘘のお陰で、あたしは彼と一緒にいられる。

 でも本当のことを知ったら……アキジはあたしのことなんか嫌いになって、嘘と事実に呆れて、きっと見捨てる。

 ――それでもいい。

 いつか捨てられるとしても、今は一緒にいたいから。

 ……大丈夫。

 まだ、ばれてない。

 出来れば別れの日が来ても、この嘘をつき通せますように――。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 花の命と、ひと夏の恋は、短いという。

 両者には実を結ぼうとする性(サガ)がある。

 銀縁に収められた、青地に積もる白い入道雲。

 窓枠の外からは飛行機がのっそりと現れて、ゆっくりと一本の線を書き加えていく。

 そうやってガラス越しに見える都会のビル群は、わざとらしいほどの季節感を演出する。

 なのに冷え症のあたしは、省エネに非協力的な冷房フル稼働のビル内で、防寒対策に上着を羽織る。

「――俺、今日でここくるの、最後なんで」

 彼は突然、あたしたちの関係に終わりを告げた。

 なんてぶっきらぼうなんだろう。

 二度と会えなくなるなら、少しくらい悲しんでくれたっていいのに。

「え? ああ、そうなんだ……」

 あたしは動揺を悟られないように、腕を組むことで強がってみせる。

 でも彼は、業務を事務的にこなすように、8枚の受領書を受付に並べた。

 ……まぁそれは業務だから、“事務的”以外の何でもないんだけど。

 彼を造形する姿かたちを、まじまじと盗み見るあたしに、彼は目を伏せたままバーコードをスキャンする。

「じゃあ、印鑑をお願いします」

「え? ああ……印鑑ないの。なくしたの」

「なくした? じゃあ、サインでお願いします」

「ああ、えっと、ペンがないの」

「ペンがない? じゃあ、俺のペンどうぞ」

「えっと、……字を忘れた」

「……何さっきから、アホなこと言ってんですか。早くしてください」

「……だってぇ~……」

 だって、これが最後なんて――…。

 12階、一番奥のオフィスに、12箱もの重たいダンボールを台車に乗せ、エレベーターで2往復してきた彼は半袖で汗を拭った。

 細くも逞しい首筋に浮かぶ光の汗は、ぶつかり合って筋となり、瑞々しい肌の上を辿って、作業着の中へと落ちていく。

 帽子の下からくるくると外側にハネる黒髪も水分を含み、よく見ると、長いまつ毛までも艶っぽく濡らしている。

 作業着の彼の胸には、『山本』と刻ざまれたネームプレートがあり、彼の下の名前は明かされない。

 ……あたしが彼について知っているのは、それだけ。

 彼は宅配屋。

 あたしは、この会社の事務員。

 そんな味気のない関係でも、毎日、束の間の逢瀬を楽しんでいたのに……。

 あたしたちの関係も、これが最後。

「……むかつく。何そのこれみよがしな汗。肌なんか小麦色に焼いちゃって。夏を満喫の自慢? 当てつけ?」

 あたしは受領書にしぶしぶサインをしながら、文句を言って、彼との時間を引き延ばそうとする。

「こんな涼しいとこにいて、ぜいたくですよヒマワリさん」

「や、あたしマリカだから」

「すいませんタンポポさん」

「タンポポでもないよ! 高貴な芳香漂うジャスミンと書いて『茉莉花』。マリカ、なの」

「ああ、トイレによくある……」

「違うよ、ジャスミンの芳香剤じゃないよ!!」

 むきになって答えると、社内にくすくすと笑いが漏れた。

 静かなオフィスに響くあたしたちの会話に、上座では課長が咳払いをする。

 あたしもそれに続いてゴホンと咳をし、最後の8枚目の伝票にサインをしながら、宅配屋を上目遣いで睨んだ。

「もー怒った。今日は何もあげない」

「あ、ひどい。いつもここくるの楽しみなのに」

「知らない。外でジュースでも買えばいいよ」

「えー。俺、マリカさんのいれてくれるジャスミンティー、のみたいなー」

 爽やかに白い歯を見せ、にかっと笑う無邪気な笑顔に、あたしは不覚にも、彼に心を射抜かれてしまう。

 そしていつものように、冷たいジャスミンティーを注いだグラスを彼に手渡した。

 彼がそれをおいしそうに飲む姿を眺めながら、宅配へのこんなねぎらいも今日で終了かなと思ったり、でも他の宅配屋にもしばらく続けないと、この子へのひいきがうちの社員達にばれてしまうとも考えたりしながら、それより……今日が最後って、もっと早く言ってよ、急すぎる。

 だけど相手は無情にも一気飲みをして、来客用のグラスをテーブルに置くと、受領書を丸めて胸ポケットに収めた。

 そして別れより時間を惜しむようにさっさとドアを開け、

「じゃ、マリカさん。ごちそうさまでした」

 とだけ言って、帽子のつばを持ち上げ、台車を引いて出て行ってしまった。

 残されたあたしは荷解きをするふりをしながら床にへたり込み、ショックを受けながら、……ある覚悟を決めた。

 いつも密かに企んでいた計画を、実行すべき時は、今この瞬間しかない。

 明日から彼に会えないなら、これがラストチャンス。

 恋愛というのは、始めるにはとても勇気が必要なことを、いくつかの恋に破れたあたしは知っている。

 だから。

 気恥ずかしさや迷いで遅れをとる前に、いっそ最後なら、とあたしはオフィスを飛び出して彼を追いかけた。

 下向きの矢印ボタンを無意味に連打して、エレベーターを12階に呼び出しながら焦れていると、2台のうち1台は20階からのろのろと下降し、もう1台はすでに3階を通過していた。

 やっと開いた扉に急いで中へと駆け込み、1のボタンを押してから駐車場が地下にあることを思い出して、B1のボタンも点灯させた。

 そして1階でドアを無駄に開け閉めしたエレベーターは、やっと蒸し暑い地下駐車場にたどり着く。

 車のエンジン音が響いた方向に走り出してみると、幸いにもまだ彼がいて。

 車内からあたしに気付くと、運転席の窓を開けた。


「あれ? マリカさ……」

「これ……忘れ物!!」


 くしゃくしゃになった9枚目の配達伝票を彼に手渡し、あたしは顔も見られずにすぐさま退散した。

 エレベーターに逃げ込んで、壁にもたれて一息吐くと、高いヒールで走った足が痛み出して、顔が熱くなって変な汗をかいた。

 

 彼は読めただろうか。

 エレベーター内で、あたしが慌てて書いた文字。

【お届け先】には彼の名字しか知らないから『山本』とだけ書いて、【依頼主】の欄には、あたしの携帯番号を。

【ワレモノ・なまもの】に丸をして、品名にはあたしの名前、『茉莉花』と記した。

 ……その意味と意図が、彼にはちゃんと伝わっただろうか。

 それとも、突然あんなことをして驚かれただろうか。

 そればかりが気になって、その日は全く仕事にならなかった。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 あたしはキャッチホンが苦手で、携帯で通話中に他の着信があると、受け取ろうとしてなぜか電話を切ってしまうので、その日は知り合いからの電話には出ないことに決めた。

 でも、そんな心配をするまでもなく携帯は寡黙だった。

 一人暮らしの淋しさに慣れていたはずのあたしは、夜が深まってくると、もう誰でもいいからとにかく会話したいとまで思った。

 そして、お目当ての人には無様に振られましたと愚痴を聞いて欲しかった。

 とうとう日付が変わろうかという瞬間がやってきて、諦めてふて寝しようと歯を磨いていると、携帯の画面が知らない数字を11個並べて鳴った。

 万が一に備えて未練がましく洗面所にまで持ってきた携帯電話が、本当に着信機能を果たしていることに驚いて、あたしは急いで泡だらけの口をゆすぎ、震える手で通話ボタンを押した。

「……、もしもし?」

 まだ誰かも分からない相手に問いかけながら、あたしの心臓は早鐘を打っていた。

 そして相手もあたしと同じようにもしもしと返した時、あたしの心臓が、今度は停止してしまうんじゃないかと思うくらいに強く鼓動した。

『マリカさん、おそくなったけど……ねてました?』

 連絡を待ち焦がれていたあたしが呑気に寝られるはずもないのに、彼は見当違いな配慮を述べた。

 だけどあたしは喜びを隠し、平然と返事をしてみせる。

「あたし、いつも夜は遅いから起きてたよ。そっちは? 外?」

『あー、今日は俺の送別会で。それでいま……』

『おいアキジ、なに抜け出してんだよ~。早く戻れよ~』

 彼の後ろを、酔っ払いの冷やかしが横切った。

 それであたしは、聞きたかった情報の一つを入手した。

「名前、アキジっていうんだー!」

『そんなおどろく? 秋を司るってかいて、ふつうですけど』

「うん、いい名前だなと思って」

 本当にそう思った。

 彼の名を表す、文字と音感すべてが愛おしかった。

「それでさ、アキジくん」

『あ。よびすてでいっすよ』

「うん、じゃあアキジ。……敬語、やめない?」

『あ、はい。わかりました』

「うん、だから。やめてっていうのに」

『おう。わかったマリカ』

「順応早いね! よびすてだし!」

 アキジとの会話の向こうには、カラオケの歌声が聞こえる。

 まだ送別会の最中なのに、その主役が、今日のうちにあたしに電話をしてくれたなんて感激に値する。

 だからあたしはどうしても、その先の展開を望んでしまう。

 あたしは恥ずかしさをこらえ、電話越しの相手に目を閉じて口を開いた。

「……あ、あのね……。アキジって、お酒とか飲む?」

『飲めなくないけど。マリカさん飲みそう』

「……飲むよー。超飲みますよー」

『まじですか。そんな感じ』

「こ……今度さ、一緒に飲み、いかない?」

『あ、いいっすね。飲みますか』

「えっ! まじですか! ……まじですか? いつがいいかな」

『今日でもいいっすよ』

「……今日!? これから? いまから!?」

『あ、今日っていうか、明日っていうか。ほら、12時過ぎたから今日っていうか明日っていうか』

「何言ってるのアキジくん……。金曜日ってことだよね」

 社交辞令かと思ったけど、さっそく会えるなんて嬉しかった。

 それに、仕事以外で会話するのは初めてなのに、彼とはいつもの調子でいられたことも嬉しかった。

 素直で人なつこい声をもっと聞いていたかったけど、電話の向こうでアキジを急かす声が聞こえた。

『オーイ何してんだアキジ。主役も歌え~!』

「あっ、アキジのこと呼んでるね。ごめん……」

『いえ。でも先輩たちがうるさいんで……また明日の夕方に連絡します。19時くらいでいいっすか』

「うん。あと19時間後かぁ。明日っていうか、やっぱり今日かな」

『やっぱ今日でしょ。それじゃ、また』

「うん、また今日。送別会、楽しんでね。おやすみ」

『おやすみっす』

 別れの言葉のあとに電話を切ると、携帯の音声は不通音に切り替わって、あたしの世界は突然、自室の静寂に引き戻された。

 だけど脳内では先程のやりとりが何度も繰り返されて、あたしは彼の一言一句にニヤニヤしたり身悶えしたりしていた。

 明日、というより今日の日にちでアキジに会える。

 服はどうしようかを迷いつつ、……下着もどうしようかを真剣に悩み、やましくも明日の睡眠不足になるようなことに備えることで、すでに今日の睡眠不足は必須だった。

 でも、……あたしはまだ大事なことに、この時点では気付いていない。

 ――いや。

 本当は、ちゃんと考えなくちゃいけない問題だったのに。

 好きという感情だけで突っ走ってしまったけど、実際アキジと会えることになって、もう有耶無耶には出来ないことに気付いた。

 何も知らないとはいえ、アキジはあたしと会ってくれるのが例えば体目的だったとしても、……まだ話していない事実を伝えたら、その性欲さえ微塵も湧かないかもしれない。

 だからアキジと会って、まず確かめたいのはそこだった。

 それなのに、ラフな格好で現れた好青年の口からは、さらにとんでもないことが伝えられた。

「夏休みおわるし、来月からまじめに大学いかないとやばいからバイトやめたんです」

「ちょっ……アキジって、大学生なの!?」

「もっと上だと思った? ふけてみえるかな」

「そうじゃなくて……配達の仕事してる社会人かと思ってた……!」

 金曜19時。

 アキジが携帯で、うちの会社から近いからと待ち合わせで指定したのは、有名デートスポットでもなく、お洒落な隠れ家的バーでもなく、平々凡々な大型居酒屋チェーン店。

 だけど、それはたいしたことじゃない。

「アキジって……何歳?」

「21。マリカさんより、ちょっと下かな」

「21歳!? それは今年で? 数え歳で!?」

「かぞえどし? あ、10月で22」

「……うわー……そうなんだ……」

 向かい合うテーブルで頭を抱え込み、あたしは呻きながら、通りすがりの店員に4杯目のビールを頼んだ。

 そうやってあたしが塞ぎこんでいたのに、アキジはあたしがやり過ごそうとした問題を蒸し返した。

「そんなに気にする? マリカさんはいくつなの?」

「……いくつって……アキジも若い子のほうが好きでしょ?」

「俺も、ってなに? だれからみて若いって思われたいの?」

「……質問を質問で返さないでよ」

「質問を質問で? それマリカさんもだけど」

 ……誰から見て、若いと思われたいか。

 張本人にそんなことを言われ、あたしは勝ち目のない勝負に戦意喪失した。

 まさか大学生だったなんて……無理だ、無謀すぎる。

 もう彼と会えるのは今日で最後なんだ、とあたしはあっさり白旗を掲げようとした。

 でも、その時。

 鮭茶漬けを運んできた店員に、アキジはドリンクを追加注文した。

「すいません。ジャスミンティーひとつ」

「かしこまりました」

「……ティー? ハイじゃないのー?」

「俺、飲むより食うほうがすきで。ていうかジャスミンティーがすきで」

「そうなの?」

「そうなのって、マリカさんがくれたからだし。いつもあの会社で、マリカさんが『おつかれさま』ってくれるジャスミンティー、あんなうまい飲みものあったんだって思った」

「……それは、労働の後だからだよ……」

 アルコール成分以外の効果で、あたしは顔が熱くなった。

 一生懸命に荷物を運び、汗だくになって働いていた宅配屋の姿に、……なんとなく。

 毎朝少し早めに出社して、ジャスミンティーをガラスポッドごと冷蔵庫で冷やし、余ったからと彼に差し出していたのは――自分より年下だろうとは思ったけど、アキジが気になってしまっていたからだ。

 もう少し、頑張ってみてもいいのかな。

 そんな淡い期待を抱いてしまう。

 ……でも、それが悪かった。

「ねぇ。それでマリカさんは、いくつなの」

「聞きたいの?」

「聞きたい」

「じゃあ、マリカって呼んで」

「あ、そうだった。マリカ」

「うん。……にじゅう……よん……」

「24? おとなだ」

「……ねぇ……それ食べたら、店出ようか」

「あ、いっすよ」

 まだ敬語まじりに笑うアキジ。

 それは目上のあたしへの配慮、または遠慮だろうか。

 胸が苦しい――…彼について純粋なときめきと、彼についた不純な嘘に。

 アキジと一緒にいるために、アキジを騙す、最悪の手段。

 本当は、アキジより6年も長く生きているなんて、とてもじゃないけど言えなかった……意気地なしで、見栄っ張りなあたし。

 そう、あたしはもういい歳、いい大人なんだから。

 こんな勢いだけで突き進むようなことより、先を見据えた行動を取らなくちゃいけない。

 相手の収入とか家庭環境とか、将来に結びつくような要素を盛り込んだ恋愛をした方が賢い。

 よりいい物件を探すとしたら、今から慌てて行動するなんて遅いくらいかもしれない。

 ……なのに。

 6つ下の大学生を相手に、この胸の高揚はどうしたことだろう。

 1軒目を割り勘で支払い、2軒目は彼が気後れしてしまわないような、でもお洒落で落ち着いた店を選ぼうと繁華街を見回していると、ふいにアキジがあたしの手を取った。

 そんな大胆さに心臓がどきりと動かされると、今度は体ごと彼にもっていかれた。

「マリカ、あのゲーセンがオープンしてる!」

「へ? ゲーセン?」

 アキジに連れられて入ったのは、パチンコ屋がゲームセンターとして改装したばかりの店。

 あたしの中でゲーセンといえば、プリクラを撮る場所という認識止まり。

 でもアキジにとっては、もっと有意義に遊ぶべき場所らしい。

「あ、これ可愛い~!」

「まかせてよ。俺クレーンゲーム得意だし」

「でもつかむ力弱いでしょ、こういうの」

「つかむんじゃないよ、転がすんだ」

 アキジは百円玉一枚を入れると、狙いを定めたクマのぬいぐるみの足にアームを引っ掛けて転がし、次のコインの投入では同じ要領で見事、獲物を捕らえることに成功した。

「すごーい! アキジ、達人!?」

「それはいい位置にいるクマをねらったから。あっ銃アクションがある! 次あれやろう!」

 彼は次々にゲームに飛びつき、多くの若者に違和感無く混じりながらも、少年さながら夢中になって遊び回っている。

 一方あたしといえば、ゲームが苦手で何一つ上手くいかず、音感ゲームでペアになっては足を引っ張り、アーケードで対戦しては容赦なく叩きのめされたわけだけど。

 アキジがあまりにも無邪気に、屈託のない笑顔ではしゃぐので、それがとても可愛く見えてしまって、いつのまにか時間を忘れて一緒になって大騒ぎしていた。

 だけど、楽しい瞬間ほど時の刻みは早い。

「……あ、やばい」

「え?」

「終電だ! マリカ、駅まで走ろう!」

「走るの? タクシー呼ぼうよ」

「電車のるのにタクシーのるの!?」

 再びあたしの手を取り、アキジは駅に続く大通りを走り出した。

 でもあたしはヒールでうまく走れずに、それでもアキジの背中についていきたくて、一生懸命追いかけるうち、笑いすら込み上げてきた。

 こんなに何かに対して、心から楽しいと思ったり、必死になったりしたことなんて、最近あっただろうか。

 日々の業務に終われ、毎日を惰性で過ごし、置き去りにしてきた感情を、予定調和をはみだすアキジが呼び覚ましてくれる。

 もっと一緒にいたい。

 彼とまだ、離れたくない。

 そんな願いが飛び出したかのように、それは転げ落ちた。

「あっ、アキジまって、ぬいぐるみが……」

 バッグから落下した小さなクマのぬいぐるみを追いかけ、あたしはアキジの手を離し、歩道の隅に転がるクレーンゲームの景品を、よろよろと取りに行って拾い上げる。

「マリカ、足……」

「あはは。こんな靴じゃ、走るのに不向きだよね」

「……ごめん……」

 申し訳なさそうな顔をして、アキジがあたしの元にやってきた。

 これじゃもう、終電には間に合わない。

「あっ、ごめんね……違うの、あたし……」

 アキジとの展開を急いだあたしは、もう大人なので、6年前なら言えなかったセリフを口にした。

「……まだ、帰りたくない……」

 こんな場面ではお決まりの、使い古しの常套句。

 男と女、終着駅は一つ。

 ……の、はずなのに。

「え……じゃあ、ファミレスいく?」

「……は?」

「マンガ喫茶のほうがいいかな」

「……」

 恋愛初心者なのか、あたしに言わせようとする上級者なのか。

 ……それともあたしなんかには、そんな選択肢しかないということだろうか。

 しょぼんとして答えを無くしていると、アキジは冗談を思いついたかのように、あっさり正解を言ってのけた。

「あー、わかった。ラブホか」

「……な、っ……!」

「あれ、……ほんとに?」

「……からかわないでよ」

「あ、うん。……ああ、そっか。ラブホなんだ」

 ……本当にわからなかったのか、気付いて言っているのか。

 でも自分の企みを露呈されて、いじめっ子に意地悪されて半べそかいている子供みたいな気持ちになって、あたしは俯くしかなかった。

 これじゃ、どっちが年上なんだかわからない。

「マリカって大胆だ」

 ほら。そんな笑顔で、またあたしを蔑む。

「だって、自分で頑張らないと……そんな魅力的じゃないもん、あたし……」

 ……もちろん、あたしだって……体で繋ぐ関係より、お互いの存在を大切にしあう仲の方が長続きすると思う。

 だけどそれを築こうとする長期戦の間に、あたしはアキジよりも先に誕生日を迎えて、また歳を重ねてしまうだろう。

 だから積極的にならないと、アキジだって……あたしなんか、女としてみてくれないでしょう?

「そんなことないよ」

「え?」

 ドキリとする。

 フォローでも、優しい言葉を期待して顔を上げる。

 ……だけど、彼はそう甘くはない。

「マリカはむっつりだなぁ」

「は? むっつり!?」

「マリカみたいにきれいな人が、配達伝票に携帯番号と、品名に『茉莉花』って……こういうことだったのかー」

 おどけて、けらけらと笑っているので、馬鹿にされているみたいで悲しくなってしまう。

「ちょっ……違うよ! あれは、あの時は……本当に必死だったんだから!」

「うん……そっか、そうだったんだ……うん……わかった」

「わかったって、何が……!」

 アキジは天使なのか悪魔なのかわからない微笑みで、泣きそうだったあたしに、……もうすでに少し泣いているあたしに瞳を細めた。

「俺、マリカとホテル入りたくなった」

「……えっ……なんで?」

「なんでって……やばい、どきどきする」

「あたしはアキジの言葉にどきどきするよ!」

「俺、そういうとこ行くの初めてだし」

「そっちにどきどきなの!?」

 困惑するあたしに、アキジは掌を差し出した。

 あたしはためらいつつもその手を取り、二人でホテル街に向かって歩き出す。

「……でも、むっつりってひどいよ」

「おっぴろげ、よりよくない?」

「おっぴろげ!? それを言うなら『あけっぴろげ』とか、『おおっぴら』じゃないの!?」

「あ。そうそれ」

「おっぴろげって! なんか下品だよ!!」

 あたしは泣き笑いになって、アキジはあのホテルがいいとか騒いで、二人でムードなんかまるで無しに喚きながら、安っぽい赤じゅうたんに導かれ、青白く光るお城へと入っていった。

 不都合な歳の差に目を瞑り、好都合な下心を言い訳にして。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 ――話を戻すと。

 つまり最初からアキジは年下のくせにどこか生意気で、あたしといえば年上なのに敵わなくて。

 だけど、目上だからと気遣いされるなんて嫌だし、アキジの人なつこさは無神経ではなく無遠慮さであり、アキジとあたしが“男と女”でいられるようで、どこか心地良くもあって。

「ほらマリカ。クリトリスをいじめてほしいなら、自分でここひろげて俺にみせて」

「……やだ。そんなこと、恥ずかしくて出来ない」

「恥ずかしい? でもしてくれないなら、いじめてあげないし。マリカの恥ずかしいクリトリス、早くみせてよ」

「……や……ぁっ!」

 足首を掴み、左右に大きく広げるアキジに、恥じらいと男らしさを感じてあたしは濡れる。

 ガラステーブルに膝が当たって、空になった缶ビールが倒れる。

 蛍光灯を付けたまま、リビングのフローリングで股をおっぴろげるあたしの、薄い草むらをかきわけて、すでに少し咲きかけている花弁から溢れた愛液を掬う彼の指がもどかしい。

「あっ……あ、アキジ……」

「こんなんじゃ足りないんでしょ? ほら、クリトリスむきだしにしてみせて」

「……は……はずかしいよ……!」

「そんなこといいながら濡れてきた。いじめてほしくてたまらないくせに」

「……だって、あたし……もう……っ……!」

「もう、がまんできない? ……やらしーなぁ。じゃあ、ちゃんとやってみせてよ」

「……っ……!」

 彼の責め句は続く。

 いつも一筋縄ではいかないアキジ。

 あたしの最も敏感な部分をくすぐって欲しいのに、あたしが彼に従えるまで一切してくれない。

 だから今日も。

 あたしはみっともなさに素直になって、恥ずかしくも自分の指で自分自身の性器を広げる。

 最初は抵抗しても、結局は快楽欲しさにアキジの言いなりになってしまう。

 小さな花芽を覆う薄い果皮を人差し指と中指で押し上げ、性欲を形成する何もかもをアキジの前にさらしてしまう。

「すごいね、クリトリス勃起させてるし。やらしーんだ、マリカって」

「やだ……いじわるいわないでっ……ああぁっ……!」

 赤く実った蕾の先を、彼の指がちょんちょんと軽く弾く。

 そんな扱いに蕾はますます芽吹き、じんじん痺れて熱くなる。

 喜びに滲んだ蜜を潤滑油に、アキジは指の腹で蕾をくるくると撫で回す。

「あっ……あ……んっ……!」

「マリカはここ一番感じるね。がまんしないで、もっと声だしてよ」

 そう言いながら、アキジは予告無しにもう片方の手を伸ばし、二本の指を瑞々しい花柱の内へと沈めていく。

「んぁあっ……あっ、あぁあああ……っ……!」

 外を揺さぶられながら中を擦られると、あたしはもうどうしようもなく感じてしまい、太ももが痙攣して爪先が伸びる。

 片手では性器を広げたまま、もう片手を床に付き、腰を浮かせて震えて喘ぐ。

 するとアキジは顔を埋めて覗き込み、舌先を尖らせて上端の突起を弾きだす。

「やあぁ……っ! あっ……アキジ、舌、きもちい……っ! あっ、あぁあっ、……もっと、……っ……!」

「マリカ……さっきまで抵抗したのに、今度はおねだりしてるの? ほんとうにエロいなぁ」

 アキジの悪戯な言葉すら、もはやあたしへの愛撫の一つ。

 ざらついた舌がぴちゃぴちゃと淫らな音を立てながら蕾の根元から先を小刻みに舐め転がし、時には吸い付いて、指を出し入れしたまま飽くことなく執拗な快感責めを施す。

「やっ……そんな……ぁっ、……ああ、アキジ……! あっ、あっ、あぁああっ……! いっ……イッちゃ、う……!! あぁあああっ……!!」

「ふーん。もういっちゃったね。すごい締め付けだ。この中に俺のちんこいれたらマリカどうなっちゃうかな」

 快楽の極地に浸って身震いしていると、アキジは強固な情欲の化身を、絶頂したばかりで痺れているあたしの秘花の園へと容赦なく捻じ込んだ。

「ひぁあ……! あっ、あぁっ、あぁあっ……!」

 しょっぱなから激しいピストン運動を繰り出すアキジに、あたしの体は弓なりに仰け反る。

 アキジはあたしのシャツを捲りあげ、乳房を乱暴に揺さぶっては固く実る尖端を舐める。

「あっ……ああぁっ、アキジ……!! あ、あぁああっ……すごい、よぉっ、あっ、いいっ……!!」

「マリカ……中、すごい、あつい……っ……!」

 床上という場所の悪さや疲れなんかお構いなしに、快楽最優先で腰を振り合う。

 息を切らせて、でも真剣にSEXに興じるアキジの表情に、あたしはいま彼に抱かれているのだとますます興奮して、内の暴君を歓迎してうねり狂いながら締め付ける。

 お互いの性器の摩擦熱で、全神経が悦楽に捕らわれ行き着くところまで昇ろうとする。

 受精のための性交はこうして、互いの欲求を満たす行為のために行われる。

 猿みたいに、肉欲を求め合うのもいいけど。

 おへその上に放たれた熱く白い精子を眺めながら、あたしはいっそ体内で受け止めてみたいと、彼にとっては恐らく興醒めなことを考えた。

 乾いた言葉を養分に、濡れ咲き乱れるイケない花びら。

 小さく実らせた蕾を、探って摘んで味わって。

 そそり立つ熱い欲望の、茎を沈めて飢えを鎮めて。

 恋という甘い蜜。

 性という甘い罠。

 隣りにいるための、甘い……嘘。

 あたしはそう、受粉を焦がれる破廉恥めしべ。

 

「この線なに?」

 情事のあと。

 力尽きてベッドでうつ伏せになっていると、横で寝そべるアキジがあたしの手首を取り、それをまじまじと見つめた。

 彼の張りのある若い肌にはみられない、途切れがちに二、三周ぐるりと続く薄い線は、時を経て自然に形成された皮膚の年輪だ。

「首のもシワ?」

「しっ……シワって分かってるなら聞かないでよ! ていうか、あたしの首にもあるの!?」

 飛び起きて鏡台に向かい、普段注意して見たことなんかない首のあたりを、じっくりと観察する。

 知らないうちに現れた年齢のまさしく皺寄せは、自分では若作りだと思っていたあたしに、人は確実に歳を取るんだということをずしりと思い知らせた。

「女にシワを指摘するなんて……アキジのばか」

「じゃあだまって思っていればよかった?」

「それもやだ……」

「マリカって、昭和何年生まれ?」

「え? 昭和ご……、60年だけど!」

 突然生まれた年を聞かれて、気を抜いていたあたしは正直に答えてしまうところだった。

 そんな質問をするなんて、シワに不信感でも抱いたのかとアキジを見ると、でもアキジはあたしに微笑んで返した。

「大丈夫。マリカがしわだらけでも俺は気にしないし」

「……あたしが気にするよ……」

 アキジがそう言ってくれるのは、嬉しいけど……。

 年齢詐称はしていても、あたしは別に普段から嘘つきなわけじゃない。

 いやらしい言葉だって、アキジが言えというなら、あたしは恥ずかしくても頑張って口にする。

 でも、いつまでもこのままでいられるはずはない。

 友達や同僚は結婚したり、子供を産んだりと、一般的な人生を紡いでいく。

 あたしだって、もういい加減なことをしている歳じゃない。

 おかげで最近では、いっそこのまま妊娠でもしてしまえばいい、と考える始末。

 そんなあたしの思惑など知らないはずのアキジは、まるでそれを見抜いたかのように、ぽろりとこんなことをこぼした。

「あのさ。あしたコンドーム買おう」

「えっ……感度下がるからって、嫌がったのアキジなのに」

「だってマリカ、すごいしめるから」

「そ、それはアキジがあんまり……するからでしょ?」

「あー。いじめられて、そんなによかったんだ」

「ちが、違うけど!」

 にくたらしい。

 やっぱりコンドームに針で穴でも開けようか。

 あたしとアキジが結ばれる運命なら、そのうち子供を授かって、結婚せざるを得なくなるんだ、なんて思っていたけど。

 受精する偶然という運命は、残念ながら今のところ訪れる気配はない。

「……のどかわいた……。マリカのジュースがほしい」

「なっ……また、するの!?」

「マリカのえっちー。ジャスミンティーが、のみたいです」

「……もう」

 あたしがいないと駄目なんだから、などという母性本能を利用されてキッチンへと向かい、グラスを持って戻ると、彼は子供のような寝顔ですやすやと眠っていた。

 この羨ましいほどの寝付きの良さは何なんだろう。

 悩みなんか一つもなさそうだ。

 付き合ってから、この2ヶ月間。

 年齢差を感じる時といえば、カラオケでの選曲とか、筋肉痛の現れる時間差とか、新聞やニュースに対してのコメントの仕方くらいで、特にジェネレーションギャップを感じることはなかった。

 それは例えば同級生同士だって、趣味や物事に対しての見解や価値観の相違はあるし、アキジに対して若いなぁとは思っても、総合的に恋愛感情は損なわれない。

 あたしの大雑把な料理だって、大味のアキジは何を出しても喜んでくれる。

 嗜好にこだわりもなく、ブランド思考もない、そんなふうに飾ることのない等身大のアキジが好き。

 それでもあたしと彼に6つの年齢差があることは紛れもない事実で、好きな人より先に老けていくということは、……女としてはやっぱり痛手で。

 しかも相手がそれを承知の上で一緒にいてくれているならともかく、あたしはアキジに嘘をついている。

 もしバレたら、……もしかしたら、もうバレてる?

 さっきの質問だって、あたしを試すものだとしたら……。

 だとしたら、どうしてあたしと一緒にいてくれるんだろう。

 ……ああそうか、ヤれるからかな?

 あたしはアキジがそんなひどい奴だなんて、思いたくない。

 だけど、もしもアキジがそのつもりだとしても……、それでもあたしと一緒にいてくれるなら、構わない。

 ――なんて。

 これは、ダメ恋愛の考え方。

 でもそんな心配をしなくても、この先ずっと彼と寝食を共にするなんてことは、ないんだろうなぁ、と彼の寝顔を眺めていたら、ぽたりと涙が落ちた。

 アキジはまだ大学生で、これからやっと社会に羽ばたいていく。

 恋だって、もっとたくさんのチャンスがいくらでも巡ってくる。

 アキジのおしべの子種を、あたしが無断で受けるわけにはいかない。

 だからといって将来のことなんか、持ちかける勇気もない。

 重く感じられたり嫌われたりしたくないから、せめてアキジの中で、いい想い出のまま終わらせたい。

 そろそろ潮時。

 最初から分かっていた。

 この恋は期限付き。

 もう終わらせよう。

 解放してあげるよアキジ。

 あたしも花が枯れる前に、別のおしべを探さなくちゃ。

『しが県て、どこ?』

 電話の向こうで、実家に帰ると告げたあたしに、アキジは淡々と聞いた。

『……俺はマリカに遊ばれてたの?』

 そんなつもりじゃ……、そんなわけない。

 真剣に好きだったし、でも彼からしたらそうなるのだろうか。

「あたしもそろそろ、先を考えないといけないから。将来につながらない恋愛は、もう終わらせないといけないの」

『将来……』

「大丈夫。学生のアキジにそれを求めたりしないよ。だからアキジは就職活動、がんばって」

『……』

 数十秒の沈黙の間を、夜の雨音が繋いだ。

 無言の集積は、アキジなりの返事なんだろう、とあたしは思った。

 じゃあねと言って電話を切っても、彼からの折り返しの着信はなかった。

 あたし達が築き上げた関係性は、こうもあっさりと終わるものだった。

 うちにあるアキジの少ない荷物は、きっとあたしが留守の間に合鍵を使ってアキジが持っていくだろう。

 1DKの空間を見渡すと、アキジの無邪気な残像が、まだあちこちに浮かぶ。

 あたしはそれらを消すために、部屋の電気を消した。

 そして携帯の電源を切り、……そんな用心をしてしまうあたり、そのうち合鍵でドアが開いて、彼があたしを引き止めにやってくるんじゃないかと、どこかで期待しているという未練。

 横になっても、なかなか寝付けない。

 辛くて悲しくて、会いたくて淋しくて、涙が止まらないから。

 ……だけど、今これを耐えないと、この先の別れはもっと辛くなってしまう。

 アキジより好きになれる人なんて、見つからない気がするけど……、万が一いたとしても余計に見つけにくくなるから。

 そうやって、無理やり自分に言い聞かせながら、あたしはまぶたが腫れるほど泣いた。

 外の天気も、あたしと同じ土砂降りだったけど、明るくなり始めたころやっと雨は上がって。

 泣き疲れたあたしは、やっと眠りに落ちた。

 ――夢を見た。

 いつだったかアキジと話したことが、ふと巡る。

「マリカはさ、ほんとえっちすきだよね」

「や、あたしがそれすきっていうか……。女だって、ちゃんと性欲あるんだから」

「そうなの?」

「そりゃあね。快感を得るためだけに存在する器官を持ち合わせてるくらいだし」

「なにそれ。どこそれ」

「……秋の味覚」

「あー、わかった。栗だ。栗とリスだ」

「……せっかくにごしたのに、言わないでくれる!? しかもダジャレって……」

「あはは。やっぱマリカえろいなぁ。でも、なんでマリカは物知りなの?」

「あー……元彼が医者で、その受け売りなんだけど」

「医者なの? その先生のことすきだった?」

「それは、その時はすきだったよ」

「なんで別れたの?」

「なんでって……。あたしより可愛くて、若い子を見つけたからかな」

「そうなんだ」

 ……あ。

 やだな、マリカも可愛いし若いよ、と言って欲しいような言い方だったかな。

「……別に、ひがんだわけじゃないからね」

「大丈夫。マリカも可愛いし若くみえるよ」

「……みえるって、何そのなぐさめ。あたしだって、まだ若いし!」

「あ。わざわざ若いとかいっちゃうと、若くみえない」

「……」

 他愛のない会話の中でも、あたしは年齢の話には敏感だった。

 年上であるということと、歳を偽っていることへの引け目に。

 嘘なんか、つくんじゃなかった。

 初めから正直に話せばよかった。

 そうしたらアキジと付き合う前に振られて、こんな辛い目に遭わずに済んだのに。

 目が覚めたらまた泣いていた。

 折角の日曜も、今日は一日中雨降り。

 荷物をまとめやすいように部屋の片付けをして、月曜いつものように出社したら、朝一番に退職届を出そう。

 こんな時ばかりは、都会に憧れて上京したあたしも田舎が恋しい。

 早く、アキジから遠ざかってしまおう。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 上京5年目にして、あたしの引っ越しは4回目。

 最初は実家から上京して、半年後に元彼と出会って同棲するために転居。

 2年後に別れて、みじめに帰郷するよりはと都内で独居し、次に引っ越す時は嫁ぎ先にと思っていたのに。

 今度は年下との恋に破れて実家に戻るなんて、親に話したら何て言われるだろうか。

 おかげで引っ越しには慣れたもので、あせらず転居手続きや荷造りをしようと、とりあえず退職届けから出した。

 でも会社では、課長から考え直して欲しいと言われ、アキジはあたしを引き止めてくれなかったなぁ、なんて思って。

 上京してから世話になっている会社だし、あっさり辞めるよりは、と後日また再提出することにした。

 だけど、引っ越し日さえ決めてしまえばこっちのもの。

 あとは業者に連絡をして、見積りを出してもらえばいい。

 いまだにこの部屋に残るアキジの荷物も、もったいないけど……、アキジに取りに来る気がないなら、諦めがつくように処分しなくちゃ。

 着替えとかパジャマとか、アメニティとか想い出とか全部ダンボールに押し込んで、業者に引き取ってもらおう。

 そして週末。

 ピンポンと玄関のチャイムが鳴り、声がするのでドアを開けると、連絡をしていない運送会社の作業服姿が立っていた。

「こういう者です」

 帽子を被ったままでも分かる、くるくるとしていた髪を短くした宅配屋が、あたしに向かい両手で名刺を差し出す。

 その真新しい長方形の白い紙をみると、そこにはこう書かれていた。

 株式会社 ××運輸

  配達係 山本 秋司

「……どうしたの、これ」

 一週間見ない間に、少し大人びたようにみえる彼が、何だかとても眩しくて。

 名刺を眺めるふりをしながら、ノーメイクだったあたしは顔を上げられなくて、ついぶっきらぼうに答えてしまう。

 すると彼は、営業を始めた。

「就活で悩んだけど、前のバイト先が声かけてくれて、ここで決めてきた。引っ越しなら、うちでお願いしますよマリカさん」

「……」

「俺は、医者みたいな立派な職にはつけないけど」

「……そんなの気にしなくていいよ」

 元彼とアキジを比べたつもりなんて、一度もないのに。

 別れた人が会いに来てくれたことで、あたしは何かを期待した。

 だけどアキジの乾いた言葉は、あたしの胸を突き刺した。

「……マリカのうそつき」

「え……」

「今日の誕生日で、マリカは28歳になったんだよね」

「な、何で……。あたしの歳、いつ気付いたの!?」

「最初から知ってたよ。あの会社でジャスミンティーをくれる人のこと、他の社員の人にいろいろ聞いてたから」

「……そうだったんだ……」

「俺がバイトやめる最後の日には、その人が俺に携帯番号教えてくれてうれしかったよ」

「……アキジごめん、あたし……」

「なのにマリカは嘘ついて、俺をだましてすてたんだ」

「……ごめんっ……」

「俺がどんなに傷付いたかしってる?」

「……ごめっ……」

 もう会わないだろうと思っていたアキジに会えて、でも嘘を咎められて、あたしは謝りながら声が震えた。

 つまらない虚勢に見栄を張っていたのに、アキジは最初から本当のことを知っていたんだ。

 あたしは決まりが悪くて、情けなくて、俯いたら涙が落ちた。

 アキジは、あたしを非難しに来たんだろうか。

「ねぇマリカ。俺はマリカの歳なんかどうでもいいよ」

「……」

「でもマリカは、自分より年上のひとがよくて俺と別れたの?」

「……そんなんじゃ……」

「稼ぎの少ない年下の俺なんか、あきてきらいになった?」

「ちがっ……ちがうよ、……そうじゃない、すきだから……あたしはアキジに嫌われたくなかったから……!」

 誤解だけはしてほしくなくて、あたしは思わず顔をあげた。

 すっぴんで、しかも泣き顔なんかみせたくなかったけど、真顔のアキジが怒っているかのように見えて。

 嘘だと思われたくなくて、あたしはもうアキジから瞳をそらせなくなった。

 アキジは帽子を深くかぶったまま、大きな目であたしを見据える。

「マリカがうそついてたのは、初めから、いつか俺と別れる気だったの?」

「……そんな……そんなんじゃないよ、付き合ってほしいから、うそをついたけど……」

「じゃあ付き合ったあとにでも、正直にいってくれればよかったのに」

「っ……だって話したって、それで将来が心配とかそんな話、されたくないと思って……」

「されたくないと思って? ――ねぇマリカって、俺にそういうの相談してくれたことあったっけ」

「えっ……」

「俺はマリカが本当のこといってくれるの、ずっと待ってた。将来のことも不安だったら、そうやっていってほしかった」

「……アキジ……」

「でも何の相談もできないような俺なんかとは、一緒にいれないし、結婚もしたくないんだって……」

「ちがうよ、だって、……あた……」

 あたしは何とか弁解を続けようとして、でも今、アキジの口から『結婚』という言葉が出てきていたことに気付いて言葉が詰まった。

 驚きのあまりに、ぽかんと口を開けたままのあたしを、アキジはとても穏やかに微笑んでいたから。

 ……だけど。

 そんな表情をしている時のアキジは、そう甘くはない。

「“あたしは”? なに? ちゃんといってよ」

 にやりと笑う彼の責め句は続く。

 いつだって、一筋縄ではいかないアキジ。

 彼は、あたしに本音を言わせようとしてる。

 それが分かったあたしは、みっともなさに正直になって、アキジにわかってほしくて本音をさらす。

「――あたしは……、ずっと、アキジと一緒にいたいよ……! でももう28だし、あと2年したら30だし、アキジだって……いつかもっとふさわしい子と出会うかもしれないじゃない……!」

 秘めた心の叫びを、初めて声にした。

 泣き声で喋りながら、ずっと抱いていた不安を彼にぶつけた。

 そんなあたしにアキジが一歩踏み寄る。

「いったでしょ、俺はマリカがしわだらけでも気にしないって。マリカが笑顔でくれる、ジャスミンティーがすきだって。俺はもうマリカのいない生活なんて考えられない。……マリカはちがうの?」

 ……まさか、違わない。

 自分からアキジを手放しておきながら、あたしは毎日泣いていた。

 後悔しながらも、仕方ないんだと納得しようとしていた。

 でもそれがあたしの勝手な思い込みだとしたら、アキジにはとても失礼なことだ。

「俺は学生だし、結婚とか将来の考えが足りないかもしれないけど……、俺はマリカと、ずっと一緒にいたいって思ってるよ」

「アキジ……」

「だからマリカと結婚したい。……それじゃ、だめかな」

「……アキジ……!」

 ――確かに、今日はあたしの誕生日。

 また1つ年を重ねてしまう、いやな日のはずだった。

 だけどアキジが会いに来てくれて、28になったあたしに、もうすぐ22になるアキジは、ただ一緒にいたいから結婚したいなんて言う。

 ねぇアキジ……これからもずっと、6つ年上の駄目なあたしを、優しく意地悪に、たしなめてくれる……?

 溢れる熱い想いが頬を伝い、あたしはアキジからの言葉に、否定に首を横に振る。

「だめじゃない……、だめなわけないよ、あたしだってアキジとずっと、一緒にいたい……!」

「じゃあ、俺のとこくる? お引っ越しの際は、ぜひ当社をご用命ください」

 料金はサービスしますよとアキジが帽子のつばを上げてみせたので、あたしは泣き笑いになった。

 ドアを開けっぱなしの玄関先で、最高の誕生日プレゼントを届けてくれた宅配屋の胸に、裸足のままで飛び込んだ。

 夏が過ぎて、すっかり涼しくなった晴天は、ジャスミンと同じモクセイ科の、秋を司る金木犀の香りに包まれていた。

 

‥ fin ‥